法燈の歩み
当山は、開祖妙春大法泥、宿縁の現在地に仏法興隆のため、草庵を建立し、本尊正観世音菩薩を屈請安置してより、数十年、本尊の加護のもとに今日に 至っている。
開祖妙春法尼は、大正三年十八才で結婚し、夫は、神社、仏閣造営建築の宮大工である。結婚してより十三年間は、子宝にも恵まれ幸福な日々を送った が、昭和元年十一月それまで健康だった夫が突然発病、あらゆる治療、看護の甲斐なく、昭和二年八月一家親族のなげき悲しみのうちに、不帰の旅立ち をしたのである。
その後は、夫に先立たれた悲歎と、幼児三人をかかえて将来の生活の不安、この心のとまどいと空虚に耐えかねて、求道の難行路を自ら求めて突進せね ばならないほど、思いつめていたのである。
夫の病気中は、毎早朝風雪をいとわず暁闇をついて日吉神社への素足参り、そして朝タかかさず仏壇の前での読経をつづけ、夫の亡き後は、近隣の寺々 の説教などを聞きめぐっても、その場だけの一時的な慰めにこそなれ、真実求道への心の痛みは募るばかりだったのである。
商売の雑貨商も休みがちになり、そのうち、店と住居を他人に貸し、母子四人土蔵生活をしながらも、この心のあがきは日に日につのるばかりで、子供 達の世話も充分にできず半狂乱にも似た毎日の明け暮れだったのである。
そんなある朝、起きるともなく床に座ったまま唱名念仏を繰り返していると、墨染の衣を着用された、御開山聖人が弟子二人をしたがえ目の前にお立ち になり、仏壇の方へ消えて行かれる…。夢を見たのではない、このあまりの不思議に吾を忘れて、読経しようとしたが、涙がとめどもなく流れはじめて経 文を読めない・・・。
「汝の主人の病死は弥陀のはからいである」
「浄土へ行く姿は別にない。汝の今の姿そのまま。罪けがれもそのままぞ」
「弥陀が引受けたからには心配はいらぬ。ただよろこびのうちに称名念仏せよ」
このどこからとなく聞える声にハッとして気付いて見ると、仏壇から六尺余りも無意識のうちに離れて頭を畳にすりつけていたのであった。
永い間、生活も子供も世間をも打ち忘れて一心不乱、本願求道を求めつづけた、この心が、この時始めて無辺の念仏の救いの手に抱かれ、ただうれしさ と有難さの感涙にむせんだのである。
夫の菩提回向と、このみ仏の教えを、世の多くの同心に、逆境に悩む人々にこの法のよろこびを、分かち合いたいと願う心に追いたてられるようにすべ てを捨て、三十有余年一番大切にしていた黒髪を即座に剃り、仏界への転身を決心して、その日より尼僧の道を歩んだのである。
名も妙春と改名、以来経文の修習、そして尼僧としての戒律行法、仏法興隆の使徒として、艱難辛苦の道程を辿ったのである。
○昭和三年九月 草庵を結ぶ。
昭和三年七月草庵建立を発願し、当時手許にあったわずか二百円を基金として、小杉銀行より五百円の融資を受けて着工。その間、托鉢行脚のかたわら法縁を説き、その足跡は富山・石川・福井の三県下にわたり、一銭・二銭の喜捨を仰いだ。
○昭和五年 富山・石川・福井地区に観音講を結成。
京都東寺真言宗別格本山東寺より実弟林大玉師が来院され、積極的な布教活動と相まって、妙春法尼と各地区の講員との法縁は一段の高まりを見た。
○昭和六年 聖天堂、慈徳殿(客殿)の建立。
○昭和十年十月 大元堂が完成。
富山市の仏師木本氏が、精根こめて斉戒沐浴六ケ月の歳月の末、完成した。
大元師明王像外脇立像二体とともに四メートル余の大立尊像は、全国稀にみる規模のもので、この落慶開眼供養は、三日三晩にわたり、特に大導師として当時の高野山管長金山大僧正猊下が親修され、また北陸三県下の観音講中 は勿論、有縁の善男善女千余名の参詣者の法悦歓喜のうちに、地元獅子舞・もちまき・稚児ねり供養等盛大な法楽に終始した。
○昭和二十三年 山門を富山市より移築完成。
富山観音講の協力のもと、雨中を努力して現在地へ移築。
○昭和二十七年 鐘楼堂を建立。
高岡市老子製作所鋳造の梵鐘が完成し、再度金山大僧正猊下親修による落慶法要を執行。
○昭和三十四年八月 本堂再建。
三十二年老朽はなはだしい本堂の再建を発願、北陸三県下の観音講の方々や、全国の篤信の人々の励ましを心の支えとして、あえて本堂再建の悲願に踏みきったのである。
発願以来二年有余にして当時としては全国的にも比類のない鉄筋コンクリート造りで木造建築にも劣らない仏閣としての尊厳性を具現 するに至り、同年八月二十一日、二十二日の両日を吉祥の日として、遷仏落慶大法会を執行するにあたって、当日、本尊仮安置所、信徒総代水上家よりの 本尊奉還の行列、そして稚児ねり供義の後、無事本堂に安置され、高野山より草繋大僧正猊下を特請し、支所下寺院諸大徳を招請して厳修したのである。
追憶すれば妙春大法尼は、黒髪を切り仏弟子としての三十有余年、毎年七日間の断食修行と八千枚大護摩行法を繰返し、前後三回高野山に参篭し、百日 間の断食、また高野山奥ノ院への毎早朝の素足参りなど高野山諸大徳の心胆を寒からしめた荒行の連続であった。
雑草の生い茂っていたこの宿縁の地に草庵を建立し、法燈を点じて四十数年の歳月が流れ、その間法縁に結ばれた数多くの信徒各位に深甚なる謝意を表 し、厚く御礼を申し上げます。
昭和四十三年 信徒総代 水上有孝 記